不寛容社会と地域コミュニティに思う

理事 槇島 和治

ラジオを聞こう

 私はラジオがとても好きです。ICレコーダーで録音し、NHKのラジオ深夜便など聞いています。朝のウォーキングや仕事に向かう車内で聴取しています。

最近は聞き逃しサービスやラジコ(?)といった無料サービスでスマホから聞いている人もいるなど多様な聞き方のアプローチがあるようです。

 最近めきめきと人気がある講談師の神田白山「TBS問わず語り・ラジオの友は真の友」、小説家高橋源一郎のNHK「飛ぶ教室」などもよく聞きます。健康、医療、介護、料理などなどの情報などバラエティがあります。

新聞記者をやめてフリーライターとなり原稿書きつつ地域の人たちと顔見知りになり仲良くなって盆踊りの講にも参加する。地域と溶け込むことのスキルもそんなラジオの体験談をきくと、なるほどと思うこともあります。

テレビも見ない人が増えていると聞きます。ラジオは何か作業をしていても聞くことができます。目を酷使する現代、聞くだけたのしく情報を得ることができます。

ラジオを聞いてない方、あらためてこの機会に聞いてみてください。

大人も絵本を開こう

私には4人娘がおり全員結婚をして、さいわい孫にも恵まれました。娘たちは日野市内、長野市、大和市そして沖縄の那覇市に住んでいます。

その孫たちが、時折訪ねてくると絵本を読む機会があります。シンプルな絵本や仕掛け絵本など孫たちは絵本の世界がとても好きです。

かつて4人の娘を育てるとき、寝るときなど読み聞かせをしていました。

仕事で疲れて絵本を読むときには自分も眠くなって、娘たちから「寝てるよ」とか、「そこはこの間と話が違う」などと言われつつ親と子どもの至福の時を過ごしていたなと思い出します。

孫に絵本を読んでいると不思議だなと思います。まだ言語も獲得してないものの気にいった絵本は何度も読むことをリクエストされます。

五味太郎の「しかけ絵本」などは孫たちに人気があります。

最近はヨシタケシンスケも上の子たちは読みます。やたら理屈っぽいなと感じますが、楽しいようです。

テレビの「お母さんといっしょ」も好きですが、紙の世界で繰り広げられる絵本の時間、空間、想像、夢やあこがれなど子どもたちの心に何が芽生えているのか。私たちも、小さき人たちの心をときめかす絵本を開いてみませんか。

近所の図書館にでかけて児童図書のコーナーに立ち寄って絵本を手に取って見てみませんか。

不寛容な社会、ひとりでも生きていける?

1年間地域の自治会役員をつとめた。自治会も脱退する人があとを絶たず、住んでいる通りが14軒あるうち、自治会加入はわが家とお隣の2軒だけ。 高齢者で回覧板を回すのが大変だから辞める、新築で転居してきた若いご夫婦に加入を勧めても入りませんと断られる。いま住んでいる地元の実情。

役員を引き受けることで、近くに住んでいるのにこれまで交流がない人と話すことができて上野千鶴子さんの講演会などもお誘いできたことはうれしかった。

 公園で話す母どうしの会話とまわりでにぎやかに遊びまわる子どもたちの賑わいにも、いいなと思っている今日この頃です。

 この数年コロナで気楽に交流できない時期を過ごしてきたので、より社会の孤立感を感じている人々もいるなと感じている。

 玄関を開けたら顔を見て気楽に挨拶し、今日はいい天気ですね。お仕事ですか、どちらにおでかけですかといった声かけもなかなか聞こえてきません。これは娘の経験したことですが、引っ越し先の集合住宅でお隣上下にご挨拶にいったらむしろびっくりされたとのこと。

肌感覚で感じるこの不寛容でびくびくした社会をどうするか。もっと楽しくここに住んでいて楽しい、お隣と親しくできて安心だという社会をめざすことは無理なのか。1年間考えて自治会役員をしてきた。知人は増えて自治会の役割も見えてきた。しかし自治会離れをふせぐ手立てはみいだせなかった。

 日野市内で高齢社会の先陣をきっている地域であるが、地元企業も経営困難でその土地を一部手放し、他企業に売りにだすという。

どういう街になるのか、そしてどんな企業がそこに来るのか注視していく。そんな今日この頃です。

新年度のことを考えて

くまがい あゆみ

1月行く、2月逃げる、3月去ると言いますが、いつの間にか3月になりました。年度末突入し、新年度のことを考えなくてはなりません。さらに、新年度は再任用最終年となり、これから先のことを考えます。高齢者の仲間入りし、自分にできること、やらなくてはならないことをやっていくしかないのですが…。ただ、元旦に亡くなった父のおかげ?で、年末から2週間という長期の休みを取りました。あらためて、自分がいなくても職場はまわるんだ?と実感しました。それが、公務員の仕事なのかもしれません。
再任用最終年をなんとか無事に終えたいと思う、今日この頃です。

公園をたまり場に!!

川松ゆり

最近、スタバやドトールにたくさんの暇人(?)が新聞や本を持参しコーヒー片手に1時間、2時間時間を楽しんでいます。

高齢者や学生などいろいろな人たちのたまり場になっています。

で、私が思うにこうした場所を公園に1つ1つ作ったらどうだろうか?と考えます。

太陽が燦燦と降り注ぐ公園の片隅でサンルームのような場所があり、そこに三々五々人が集まり、ゆっくり好きな時間を過ごす。馴染みになってくるとおしゃべり相手ができ、より楽しい時間がはじまる。もし、ここに囲碁や手芸の道具でもあれば趣味の時間も始まる。時にはストレッチ運動を始める仲間ができる。なんてね!!

どこかに、こんなことができる公園と仕掛け人はいないかな?キッチンカーがそれぞれの公園に留まって、たまり場になるってものいいんじゃないかな?? 誰か、市役所の扉を叩いてやってみない?

**一緒に働きましょう!**

理事 渡邉 雅子

介護のお仕事は、人との関りです。
お仕事なのに、「ありがとう」をたくさん言っていただいて、「こちらこそありがとうございます」と気持ちがほっこりします。
人生の先輩のご利用者様からいつもたくさんお教えいただいています。

少しでも興味のある方は月に1時間でもご一緒に働きませんか?
介護のお仕事には不思議な魅力があります。

子育て中でも、隙間時間での就労は可能かと。
今は、1回20分からお仕事はあります(介護の資格は必要です)。
「おじいちゃんやおばあちゃん力になっているの」の会話を小さな子が聞いて、温かな気持ちの子供が育ち、みんなで助け合える地域つくり
ができたら嬉しいな、と考えています。

健康に生んでくれた母に感謝

理事 中能孝則

幼いころから、おなか一杯に食べてみたかったものの一つにバナナがありましたがそのころは病気でもしない限り食べることはできませんでした。

近所の友達が風邪をひきバナナを食べているのを見ると「自分も風邪をひいてみたい」と思ったこともありました。しかし、母がとても頑丈な子に産んでくれたお陰様で、バナナにありつけることはありませんでした。

あるとき父がひと房のバナナを何処かで頂いてきたので、喜び勇んで母のもとに行ったのですが、母は「まずは仏様にお供えしてから」と話し仏様の前にお供えしました。

私は、いつになったら食べられるのだろうかと仏様の前を通るたびにつばを飲みこんだ記憶があります。そして、そのバナナは1週間後くらいに私たちの目の前に出され、皮に黒い斑点のようなものが現れていたバナナをいただきましたが、このバナナがとても柔らかくとろけるように美味しく、お金を稼げるようになったら毎日バナナを食べたいと思っていました。

そして、上京し最初の給料でバナナをひと房買い求め毎日食べました。その後も我が家の食卓にはバナナがありました。

しかし、6年前に心筋梗塞を患うとともに、様々な生活習慣病も発症いたしました。そして、お医者さんからは、「まずはやせる努力をしなさい」と言われ、鬼のような家族の愛に支えられての食事制限と運動療法が始まりました。そのかいあってか病気の前には90キロ超えていた体重が今では70キロを下回るところで維持できています。

その後、かかりつけの先生のところに通うようになりましたが、カリウムの値が下がらず、食べているものを書き出したところ、バナナに多く含まれていることがわかり、先生からは「バナナはあなたの食べ物ではないです」と言われました。それ以来クッキー等に入っているものを間違って食べ無いかぎりバナナを口にすることはなくなりました。

さらに調べてみると、大好きな干し柿をはじめ乾燥した果物には大量のカリウムが入っていることも分かりました。干し柿などこれからがシーズンなのにと思いつつも、健康に生んでくれた母に感謝しつつ、「健康が一番」を大切にしていきたいと思う今日この頃です。

コミュニケーション能力を考える

副理事長 藤永清和

 新型コロナやプーチンの戦争、習近平の独裁など、地球規模で心配の種は尽きない。武漢で発生した時ならゼロコロナ政策が有効だったかもしれないが、あのときは「人から人へはうつらない。空気感染はしない」など誤った情報で感染を広げた。そして、世界中がコロナはゼロにならないことを前提にしているとき、一国ゼロコロナ主義がうまくいくとは考えられない。また、プーチンらが平和を望むとは思えない。このような世界情勢の中で、我々はどのように生きたらよいのか思いめぐらしている。

 ところで、障害者に対して健常者という。さて自分は常に健やかなる人であろうか。病める時も健やかなる時もあるのではないか。それなのに自らを健常者と称するのはいかがなものかと思う。そして、健常者の偏見や他者を見下す態度をどう考えたらよいのだろう。障害者を差別している人を健常と言うことに違和感を覚える。弱い立場の人が引け目を感じるのも健常者のせいではないか。

 障害者施設を訪れると「親亡き後」が心配だという高齢の親の話が出る。それは社会が障害者を受け止めていないからだ。時には障害者グループホーム建設に反対運動が起こる。障害者の特性をよく理解して障害者のパニックを誘い、「ほら障害者は危険だ」という「健常者」もいる。福祉事業所では地域とのかかわりを大切にしていると理念や行動指針では語る。しかし障害者が地域になかなか溶け込めていない現実がある。無神経な「健常者」のふるまいのために外出できない障害者もいる。

昨今はコミュニケーション能力が重視されている。その人の他の能力よりもコミュニケーション能力が大切だとさえ言われる。しかし、コミュニケーションは情報共有や意思の疎通を意味し、双方向のものである。相手にコミュニケーション能力を要求するのは、意思の疎通に苦労したくないからではないか。コミュニケーション能力の重視は分かり合うための努力や人の多様性を認めるのと違う方向に向かっているように思われる。「ほうれんそうは賛成土壌には育たない」ことも忘れてはならない。

ゴゲジャバルの気持ち

理事長 湯本とおる

いたずら小僧にヒゲを切り落とされてしまったゴゲジャバルに、痛く同情した村人たち(庄屋さんやばあさんや若者たちまで)、夜通し「ホーイホー!」と祈り続けたものでした。

あんまりガンバッタので、つぎの日の野良仕事ができなかったり、連夜なので体調をわるくして寝込む人まで出る始末。

村人が熱い応援をくり広げていたとき、ゴゲジャバルはなにをしていたのでしょう。

朝な夕なに村人たちは、ゴゲジャバルのヒゲが伸びたかどうかたしかめにやってきてはのぞき込みました。それに、夜ひるかまわぬ熱心な応援に、ゴゲジャバルは寝付けないのでうるさそうに薄眼をあけてぼーーっとしていました。

そんなある日、とうとうゴゲジャバルは起きあがってブルブルと身震いをしてから、ひとつなが^~~~い伸びをすると、フラフラとどこかへいってしまいました。

それから何か月もゴゲジャバルを見かけませんでした。あるとき庄屋さまが村はずれで見かけたゴゲジャバルには、りっぱなヒゲが戻っていました。そして、庄屋さまの顔を見ても特に親しげでも感謝する風でもなく、そこら辺の草でも見るような目をして通り過ぎていきました。

おしまい!!

髭なしゴゲジャバル – NPO法人 日野福祉の学校  ひのふく (hinofuku.org) 2022年1月

徒然なるままに

理事 大塚喜久子

 私には失語症の妹がいます。久しぶりに会いに行くと、私の顔を見るなり「私が交通事故で死んだ夢をみた」と手振り身振りで、やっとこさ伝えるんです。正夢だと困るなと一瞬思いました。運転が苦手、高齢者になった、もう運転は辞めるように言われています。
その2~3日後に自宅の裏庭でタヌキが死んでいました。とっさに私の身代わりだと妄想しました。タヌキに手を合わせ花を置きました。そしてそのまた2~3日後に、今度は子ダヌキが裏庭を走りました。寒い時期だったので、親が死んでしまい、この寒さの中、おまえも生きて行くのが大変だなと思いました。私はしばらく残飯をあげる事にしました。タヌキ達は敷地内の納屋の下に穴を掘って、そこを寝ぐらにしていると先住人が言うのです。もう10年以上にはなるらしいです(世代交代はしていると思いますが)私は最近引っ越してきたので、餌付けをしていた訳ではありません。せめて子ダヌキが大きくなり、暖かくなるまでと思いました。
1ヶ月ぐらい過ぎたある日、また子ダヌキが庭を走ったので、「ぽんた」「ぽんこ」と声をかけました。残飯を床下に置く時に、いつも声をかけます「ぽんた」「ぽんこ」と。私のダミ声は聞き慣れているはずです。すると子ダヌキは止まって私を見ました。私は「元気で大きくなったか」と聞きました。「ハイ、いつもありがとう」(妄想もいいとこアハハ)と言って走り去りました。
日本昔話には、いろいろな動物達との触れ合いが出てきますが、本当だなという気持ちになります。
福祉の学校でも、たびたび「共生」という言葉が出てきて皆で話合います。近くの我が家の畑には、イノシシ、タヌキ、ハクビシン、鳥達、そして今はサル達に頭を抱えています。作物をことごとく食い荒し、ちょうど良い収穫期をピタリと狙います。他にも、蛇、蚊、ゴキブリ、百足、スズメバチなど。
『共生』難しいな~~~~とつぶやきます。

沖縄に心を寄せて

槇島和治

私が中学生の時、音楽の授業ではじめて沖縄にふれた。教師は今は沖縄在住で八重山文化研究のために東京から沖縄に移住。

「てぃんさぐぬ花」をそのときはじめて聞いたが、いまも耳に残っている。

音楽教師には音楽の楽しみや、背景の文化そして沖縄がおかれている現実、米軍機からの落下物で亡くなる人がいたんだと衝撃的な話も聞かされた。

 高校を卒業、民間企業に就職し、沖縄返還運動やベトナム反戦運動に関心をもった。

「沖縄を返せ」の歌は強く印象に残っている。

 時がたち沖縄海洋博の年に結婚し、新婚旅行で沖縄にいった。

 子育ての時期は職場での労働組合運動、地域での保育運動やPTAなどにもかかわってきた。

 そして娘たちが成長し4女が昨夏より沖縄に移住した。

娘の夫が沖縄出身で地元に帰郷しレストラン経営を秋から開始するためだ。

東京育ちの娘も孫とともにこの1年コロナとの格闘をしつつ那覇で生活基盤をつくりつつある。

夫のご両親も沖縄人らしく、つらいことがあっても「なんくるないさー」と明るく一緒に娘夫婦や孫を励ましてくれることがとてもありがたい。

かつての戦争で沖縄本土を犠牲にして県民の多くが亡くなり、しばらく米軍統治となりいままだ、日本にある米軍基地の70%が沖縄にある。

沖縄だけではなく人権や差別の問題はまだまだ日本国内に山積している。

ホットな課題は旧統一教会からの霊感商法で多くの国民が苦しんでいる現実。

一緒に理事をしている中能氏がよく話されている。

 いま私たちのおかれている日本という国が本気で私たちを愛してくれているのか、真剣に考えなければと思う。

 日野福祉の学校創設のきっかけになったデンマークに学ぶことと同時に、足元の現実から目をそむけず歩んでいきたい。

これからも、ATMで生きていこう!!

梅﨑満洲夫

私は、昨年9月にラクナ梗塞を発症し多少足と言葉に不都合をきたしておりますが、目下リハビリに通っています。周りの皆さんから安否をあんずる声をかけていただき元気に暮らしております。大変ありがたいことです。そして、体を動かす(散歩等運動)ことなど主治医の強力な勧めもあり近くの公園で毎朝行われている体操会に入会し、地域デビユー(公園デビユー)をして2か月になりました日曜日と雨の日を除き毎朝6時10分から6時50分ぐらいまで約40名ほどの元気な皆さんと体を動かしています早起きは何とかといいますしきっといいご利益があると信じて精を出しております。最後に、ある大学の先生がこれからの人生は、ATMで行きましょうと言われておりました。
   A 明るく T 楽しく Ⅿ 前向きに