コミュニケーション能力を考える

副理事長 藤永清和

 新型コロナやプーチンの戦争、習近平の独裁など、地球規模で心配の種は尽きない。武漢で発生した時ならゼロコロナ政策が有効だったかもしれないが、あのときは「人から人へはうつらない。空気感染はしない」など誤った情報で感染を広げた。そして、世界中がコロナはゼロにならないことを前提にしているとき、一国ゼロコロナ主義がうまくいくとは考えられない。また、プーチンらが平和を望むとは思えない。このような世界情勢の中で、我々はどのように生きたらよいのか思いめぐらしている。

 ところで、障害者に対して健常者という。さて自分は常に健やかなる人であろうか。病める時も健やかなる時もあるのではないか。それなのに自らを健常者と称するのはいかがなものかと思う。そして、健常者の偏見や他者を見下す態度をどう考えたらよいのだろう。障害者を差別している人を健常と言うことに違和感を覚える。弱い立場の人が引け目を感じるのも健常者のせいではないか。

 障害者施設を訪れると「親亡き後」が心配だという高齢の親の話が出る。それは社会が障害者を受け止めていないからだ。時には障害者グループホーム建設に反対運動が起こる。障害者の特性をよく理解して障害者のパニックを誘い、「ほら障害者は危険だ」という「健常者」もいる。福祉事業所では地域とのかかわりを大切にしていると理念や行動指針では語る。しかし障害者が地域になかなか溶け込めていない現実がある。無神経な「健常者」のふるまいのために外出できない障害者もいる。

昨今はコミュニケーション能力が重視されている。その人の他の能力よりもコミュニケーション能力が大切だとさえ言われる。しかし、コミュニケーションは情報共有や意思の疎通を意味し、双方向のものである。相手にコミュニケーション能力を要求するのは、意思の疎通に苦労したくないからではないか。コミュニケーション能力の重視は分かり合うための努力や人の多様性を認めるのと違う方向に向かっているように思われる。「ほうれんそうは賛成土壌には育たない」ことも忘れてはならない。