副理事長 藤永清和
言葉は不思議なものだ。ある人には深く響き、またある人には全く届かない。かつて、「あなたの感想とわたしの感想は違うけれども、互いに尊重しよう」という趣旨の文章を書いたことがある。しかし、その反応には共感を示してくれる人はいたが、「意味分かんな~い」の一言だけのものもあった。
別のときには、異なる経験をした。専門知識のない人には説明が不可欠で、聞く姿勢がある人にはきちんと説明すれば理解してもらえる。説明を求められたからだ。それでも、すべての人に伝わるわけではない。読者が誰なのかを意識することが、文章を書く上で何よりも大切だと痛感した。
このことを考えると、かつてのパソコン通信のフォーラムでの出来事を思い出す。あるとき、激しい攻撃を受けた。攻撃者は一人。毎日繰り返される非難の嵐。どんなに反論しても、相手には全く響かない。言葉が無力に感じられた。ところが、ある日突然、攻撃は止み、驚くことに詫びが入った。その瞬間、ようやく相手に何かが伝わったのかと思ったが、実際は違った。彼の尊敬する人が、「それはお前が間違っている」と言ってくれたからだった。
かつて、わたしの先輩は「人には誤解する権利がある」と言った。同じ言葉でも、発言者によって、あるいは聞き手との関係によって、過大評価されたり、激しく敵対されたり、無価値なものと思われたりするものなのだろう。
言葉は、受け取る側の状況や心持ちに大きく左右される。伝えようとしても届かないこともあれば、思わぬ形で伝わることもある。それならば、無理にすべての人に理解してもらおうとするのではなく、「分かる人には伝わる」ことを大切にするのも一つの在り方かもしれない。それでも、言葉は相手によって伝わり方がさまざまであり、その多様性こそが、コミュニケーションの豊かさであり、新しい発見やつながりを生み出す可能性があるのだと思う。