会費 1000円
飲食を含みます
お願い:マスク着用(コロナ陽性者は減少傾向ですが油断できません)。
少しでも体調に違和感がある場合はご遠慮ください。
会場:公益財団法人社会教育協会 3 階ホール(豊田駅北口徒歩2分、すきや3階)
予約をお願いします。藤永 清和(SMS) 090-2240-8124 fujinaga@hinofuku.org
ひのふく director@hinofuku.org
保護中: 日野福祉の学校 運営委員会 速記録 2022.10.03
ゴゲジャバルの気持ち
理事長 湯本とおる
いたずら小僧にヒゲを切り落とされてしまったゴゲジャバルに、痛く同情した村人たち(庄屋さんやばあさんや若者たちまで)、夜通し「ホーイホー!」と祈り続けたものでした。
あんまりガンバッタので、つぎの日の野良仕事ができなかったり、連夜なので体調をわるくして寝込む人まで出る始末。
村人が熱い応援をくり広げていたとき、ゴゲジャバルはなにをしていたのでしょう。
朝な夕なに村人たちは、ゴゲジャバルのヒゲが伸びたかどうかたしかめにやってきてはのぞき込みました。それに、夜ひるかまわぬ熱心な応援に、ゴゲジャバルは寝付けないのでうるさそうに薄眼をあけてぼーーっとしていました。
そんなある日、とうとうゴゲジャバルは起きあがってブルブルと身震いをしてから、ひとつなが^~~~い伸びをすると、フラフラとどこかへいってしまいました。
それから何か月もゴゲジャバルを見かけませんでした。あるとき庄屋さまが村はずれで見かけたゴゲジャバルには、りっぱなヒゲが戻っていました。そして、庄屋さまの顔を見ても特に親しげでも感謝する風でもなく、そこら辺の草でも見るような目をして通り過ぎていきました。
おしまい!!
保護中: 臨時運営会議 2022年9月12日
徒然なるままに
理事 大塚喜久子
私には失語症の妹がいます。久しぶりに会いに行くと、私の顔を見るなり「私が交通事故で死んだ夢をみた」と手振り身振りで、やっとこさ伝えるんです。正夢だと困るなと一瞬思いました。運転が苦手、高齢者になった、もう運転は辞めるように言われています。
その2~3日後に自宅の裏庭でタヌキが死んでいました。とっさに私の身代わりだと妄想しました。タヌキに手を合わせ花を置きました。そしてそのまた2~3日後に、今度は子ダヌキが裏庭を走りました。寒い時期だったので、親が死んでしまい、この寒さの中、おまえも生きて行くのが大変だなと思いました。私はしばらく残飯をあげる事にしました。タヌキ達は敷地内の納屋の下に穴を掘って、そこを寝ぐらにしていると先住人が言うのです。もう10年以上にはなるらしいです(世代交代はしていると思いますが)私は最近引っ越してきたので、餌付けをしていた訳ではありません。せめて子ダヌキが大きくなり、暖かくなるまでと思いました。
1ヶ月ぐらい過ぎたある日、また子ダヌキが庭を走ったので、「ぽんた」「ぽんこ」と声をかけました。残飯を床下に置く時に、いつも声をかけます「ぽんた」「ぽんこ」と。私のダミ声は聞き慣れているはずです。すると子ダヌキは止まって私を見ました。私は「元気で大きくなったか」と聞きました。「ハイ、いつもありがとう」(妄想もいいとこアハハ)と言って走り去りました。
日本昔話には、いろいろな動物達との触れ合いが出てきますが、本当だなという気持ちになります。
福祉の学校でも、たびたび「共生」という言葉が出てきて皆で話合います。近くの我が家の畑には、イノシシ、タヌキ、ハクビシン、鳥達、そして今はサル達に頭を抱えています。作物をことごとく食い荒し、ちょうど良い収穫期をピタリと狙います。他にも、蛇、蚊、ゴキブリ、百足、スズメバチなど。
『共生』難しいな~~~~とつぶやきます。
保護中: 日野福祉の学校 運営委員会 速記録(2022.08.01.)
沖縄に心を寄せて
槇島和治
私が中学生の時、音楽の授業ではじめて沖縄にふれた。教師は今は沖縄在住で八重山文化研究のために東京から沖縄に移住。
「てぃんさぐぬ花」をそのときはじめて聞いたが、いまも耳に残っている。
音楽教師には音楽の楽しみや、背景の文化そして沖縄がおかれている現実、米軍機からの落下物で亡くなる人がいたんだと衝撃的な話も聞かされた。
高校を卒業、民間企業に就職し、沖縄返還運動やベトナム反戦運動に関心をもった。
「沖縄を返せ」の歌は強く印象に残っている。
時がたち沖縄海洋博の年に結婚し、新婚旅行で沖縄にいった。
子育ての時期は職場での労働組合運動、地域での保育運動やPTAなどにもかかわってきた。
そして娘たちが成長し4女が昨夏より沖縄に移住した。
娘の夫が沖縄出身で地元に帰郷しレストラン経営を秋から開始するためだ。
東京育ちの娘も孫とともにこの1年コロナとの格闘をしつつ那覇で生活基盤をつくりつつある。
夫のご両親も沖縄人らしく、つらいことがあっても「なんくるないさー」と明るく一緒に娘夫婦や孫を励ましてくれることがとてもありがたい。
かつての戦争で沖縄本土を犠牲にして県民の多くが亡くなり、しばらく米軍統治となりいままだ、日本にある米軍基地の70%が沖縄にある。
沖縄だけではなく人権や差別の問題はまだまだ日本国内に山積している。
ホットな課題は旧統一教会からの霊感商法で多くの国民が苦しんでいる現実。
一緒に理事をしている中能氏がよく話されている。
いま私たちのおかれている日本という国が本気で私たちを愛してくれているのか、真剣に考えなければと思う。
日野福祉の学校創設のきっかけになったデンマークに学ぶことと同時に、足元の現実から目をそむけず歩んでいきたい。
『教育を語る』速記録 ’22年7月
2022年7月24日
出席、湯本、酒井、槙島、藤永、岩本、中能、熊谷(オンライン)
湯本さん
- 北海道旭川の近く、農家で育つ
- 小学校まで4キロ、中学校まで7キロを通う
- 一クラス48名で一人の先生がすべてを教えていた。
- 周りと競争するような教育ではなかった。
- 学力の劣る子もいたがみんな日常の会話は問題なく一緒に遊んでいた。
- 中学校に入り受験戦争の雰囲気が出てきていた
- 選べない教育は考える必要もない。これが大きな問題である。
- 自分で考えて選ぶ、行動するという経験が身についていない。
- 日本の古い教育には落第の制度もあったが国民には不評であり、そのうちに廃止された。
- 先生が信念をもって教育してほしい。
中能孝則さん
- 南九州の甑島に生まれる
- 30名の二クラス、毎日遊び惚けていた。
- 先生は毎年変わったがそれぞれに楽しかった、特に3年生の先生は代用教員であったが山に登り、川に遊び、海と戯れるなど、遊び実に楽しかった。
- 4から6年生は同じ先生で遊んだ記憶が強い
- 夕陽を見ながら山から下りてきた、その帰国は鮮烈に覚えている。
- 日本の教育はあまりお金をかけていない
酒井さん
- 長野県の丸小町に生まれる
- 小学校まで40分以上かかった
- 一クラス28名で二クラス、6年生まで同じクラスで学ぶ
- 先生も二回変わっただけで何でもできる先生であった。
- いじめもなく楽しい学校生活を送る
- 中学校に入ると一クラス42名で4クラスであった
- 両新は水飲み百姓だったが、生きるための足りるを知っていたように思う。
- 戦後の教育は変わったと思われていたが、その実は変わっていないのでは。
- 幼稚園は選べたが、小学校は選ぶことはできなかった。
槙島さん
- 葛飾に生まれ、遠足は寅さんふるさと柴又
- 小学校で偉人に会う
- 3年生で村山団地に引っ越す、3クラスで第一期生
- 沖縄に傾倒した杉本先生に出会う。今に言う偏向先生であったように思う
- 出会った先生の影響はおおきい
- 教員が「これは何のために」という話をしていない。
- 日野市は考える教育をしたいと前教育長が言っている。
藤永さん
- 文京区の小中学校に通う。
- 小さいころから銀座などに行くこともあり都会では傷痍軍人にも出会った。
- 職業に貴賤はない・服装で人を判断してはならないとならったが、大人になって服装で差別のようなことを受ける。
- 高校受験に失敗(都立は1次、2次落ち、私立の2次募集で滑り込んだ)するなど落ちこぼれではあった。高校では制服・制帽廃止運動をした。
- 戦争で負けて軍国主義的な教育は終わったはずなのに、仕組みは変わらなかったのではないか。
- 日本人は他人に合わせるのが得意で自分で判断して責任を持たされることが嫌なのではないか。
岩本さん
- 3歳まで日野の多摩平団地で育つ。その後東大和市で生活する
- 幼稚園の頃からいたずら好きで廊下に立たされた記憶もある
- 男の子とザリガニ獲りなどして遊んでいた
- 読書がとても好きで、ひたすら本を読んでいた
- ある理科のテストのとき机の上に花を描いていると、先生からこれはカンニングというものですと叱られた。
- 父母会でもカンニングのことを話され、親の知ることになった
- 二週間くらいは地獄のような日々であった。七歳の時のいやな思い出は今でも消えることはない。
- 中野の中学に通う、違う環境に行けてすごく楽しい3年間であった。
- 今ではありえないような教育であったように思う。
- 今の子は制服を欲しがる(決まっていると楽である)
- オランダに7年間いた、教育は自由で日本との違いに驚いた。
- それが当たり前だと思う日本の教育
- 日本はかなり変わった国だと思う。
- 日本の教育を変えるには教師の意識を根本的に変えていく必要があるのでは。
- 日本は学校を選ぶことができないのがほとんど
- 教育の選択の自由が欲しい
- 考えて選ぶ人間を育てることが必要では
- オランダは、子どもの進級については、親と先生と子ども話し合って、前に進むかも少しとどまるか、決めていく。日本では頼台となる、どこに視点を当てるか、意識を変えていくことが大切では。
- 日本の意識はどうしたら変わるのだろうか。何から始めるか。
- みんな違ってみんないいのでなく、みんな違って当たり前になってほしい。
熊谷さん
- 校則について都立高校の三期生で校則はなかった。
- 下駄をはいてくるな、オートバイに乗ってくるなくらいであった
- 制服もなかった。
- 制服廃止運動をやっている人もいた。
これからも、ATMで生きていこう!!
梅﨑満洲夫
私は、昨年9月にラクナ梗塞を発症し多少足と言葉に不都合をきたしておりますが、目下リハビリに通っています。周りの皆さんから安否をあんずる声をかけていただき元気に暮らしております。大変ありがたいことです。そして、体を動かす(散歩等運動)ことなど主治医の強力な勧めもあり近くの公園で毎朝行われている体操会に入会し、地域デビユー(公園デビユー)をして2か月になりました日曜日と雨の日を除き毎朝6時10分から6時50分ぐらいまで約40名ほどの元気な皆さんと体を動かしています早起きは何とかといいますしきっといいご利益があると信じて精を出しております。最後に、ある大学の先生がこれからの人生は、ATMで行きましょうと言われておりました。
A 明るく T 楽しく Ⅿ 前向きに
たまりばで話したいこと、聞きたいことはコメントください
残念ですが、8月12日に続き、9月9日も中止です。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)蔓延のため、8月、9月のたまりばは中止します。
藤永 清和(SMS) 090-2240-8124 fujinaga@hinofuku.org